昭和五十六年九月二十日 朝の御理解
御理解 第九十二節 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、 別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、 ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によ って神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に 身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きると は、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
合楽教会に、いやその守り々といわれる私に力があるとは思われませんけれども、合楽教会にかけられる神様の願い、合楽で説かれる合楽理念が人間の幸というか、助かりに最高の理念として神様の願いを、合楽で現す事のでけれる手立てがだんだん完璧に向かって近づいているわけでございます。
そういう大きな神様の願いに応えて立とうというその願いに応えて立とうというこの願いと思いは、これは私は誰にも負けないと自分で思うとります。
私に力があるとは思われませんけれども、その証拠に合楽でまあ、沢山の人が助かっていき、只、奇跡としかいえないおかげが次々と現れているのもそういう事である 神様のいうなら、悲願とも思われる願いが合楽教会によってはじめて成就しょうとしておる。沢山な教会もあった。沢山な宗教も又あったけれども、神様の心の心というか真の心という「氏子信心しておかげ受けてくれよ」と言うておられる。そのおかげがです、結局は神も助かり氏子も立いくという世界の顕現にあると思うんです、神の願いはね。昨日もここで修行しとります梶原先生の家内であります佳代先生の叔父さんにあたる方がもう、十日も前だったでしょうか、尿道結石で病院に入院されておかげを頂くようにという事であった。ところが、どうにも病院で仕様がない。
昨日の朝、あちらの行本のおばあちゃん親子で参って見えて、今日退院する事になりましたち言う。そりゃそのよくなって退院するのですかち言うたら、病院でも仕様がないち言われるち。それでまあ、いうなら、退院するのじぁなくて退院させられるという感じなんですよね。で、昨日又、午後電話がかかってまいりまして、あの行本先生、いや、梶原先生が受けておりましたが、もう、帰ろうという寸前にその大きな石が出たという。それでお医者さんも喜ばれる本人な尚更喜ぶといったようなおかげをこうむりましたからという。
これはここに参った事もない叔父さんというのは、行本家の御兄弟ですから、ここに参った事もない人ですけれども、行本さん、梶原先生達の信心によって、そういういうなら、働きを受けた。だから、只、偶然とはどうしてもこりゃ神様のおかげとは言わずにはおれないという、まあ、ものなんです、信心がなかってもね。
これも昨日、丁度研修前でしたが伊万里の吉富さんが先だってから、もうこれも、十日位前でしたでしょうけれども、子供さん、小学校三年生小児喘息で大変悩んでおられる事を聞いて御神米を持って行ってやられた。その御神米を一体頂いたのと同時に今日までその発作が起こらないち言う。それでもう、とにかく早くお礼参拝がしたいしたいというけん連れて参って下さいと言われるけれども、先日吉富さん何かにここにお参りして来る時にいろんな都合があって昨日おばあちゃんとそのお母さんとお父さんと本人と四人をお導きして参ってみえました、ね。
お参りした事もない。御神米一体でそういう働きがおこっておるという事、ね。
まあ、本人よりかその両親、おばあちゃんの喜びというものはね大変な事。それで私、何かこの人達にお話しをしてくれという。私は、お話しをしたかったです、ね。 だから本当にその信心の有り難さがわかってその信心が続けられる。又お礼参拝でもがでけるというような時にお話しようと思うとったけれども、そんなら聞いて下さいというてしばらくお話しした事でしたけどね。何と申しましょうかね。そういう、例えばそのおかげをね、皆さんも頂きたい、そういうおかげが頂けれるなら有り難いこりゃいろんな問題を持っている人が沢山ありますから、そんなにならばこのまあ、御利益が受けられるなら受けたい。どうでしょうか皆さん。
それで昨日の研修の時にその事を取り上げて研修させて頂いたんですけれども、そういうおかげもおかげだけれども、願っても願ってもおかげにならんというのもおかげだよという結論が出たんですよ、ね。だから信心がわかるという事は願っても願っても右と願ってもむしろ反対に反対になって行く事でもおかげだよとわかった時にね本当の信心がわかったという事になるのです。その事を私は、具体的にいうたらどういう事じゃろかと思うて、丁度四時の御祈念に入りましたから神様にお伺いさして頂いたらね、あのう『彼岸の彼方』と頂いたんです。お彼岸(ひがん)の彼方です。
彼岸の彼方。だから彼岸の彼方ちゃどういう事だろかと思うたら、悲願という神の願い、神の悲願とこう申します。悲しいまでの願い。神様のいうなら悲しいまでの願いが氏子にかけられておる。これは氏子、人間氏子じぁなからなきゃでけないのが信心であり、御神徳も人間氏子にでなければ渡せない。
牛やら馬に渡すわけにぁいかん。牛や馬に信心してくれというわけにゃいかん。どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと、信心しておかげ受けてくれよという信心は人間より他になかという程しにね。その神様のその思いたるやもう本当に悲願です。 切なるまでの私共に願われる願い。それがなら、誰でもその気になれば容易う、けっしていばらの道でもなからなければ、あられぬ行をしなければならない。人間が人間らしゅう生きながら、しかも最高の助かりを得ていけるという手立てが合楽理念に説かれ、その合楽理念を合楽によって説かれる。こりゃもう、合楽地名そのものからこりゃ、神様の昔の昔の大昔からそういう願いがかけられておったのが合楽である。 その神の願いを私が察知した。私が感じるようになった。そこでその願いに応えようというのが今、日々この祈り願いは誰にもそれこそ人後におちない思いを持っておる。それが合楽の一つの比礼の元になっておるのじぁなかろうか。人間というものはなかなか疑い深いね。けれども疑うわけにはいけん程しのおかげを見せたり、聞かせたりね、体験させて神様を感じる。そこから真の信心がでけてくるようになる。
その真の信心とは氏子の願いが願い通りになる事がおかげではなくて、神の願いではなくて、ね。氏子が願っても願ってもおかげにならん、いや、むしろ右が左になってもそれをおかげとわかるところまで信心を進めてくれよ。そこには神人、共に栄の道が開けてくる。神も助かり氏子も立ちいくという道が開けてくる、ね。
神の悲願というのは、そこにあるのだと、ね。おかげは彼岸の彼方に、だけれどもそこにおかげを受ける事の為にあれもわからせて頂いた。これもわからせて頂いた。 信心辛抱の徳も身に受けた。そして信心とは一年々有り難うなっていけれるその土台が基礎がでけるという事なんだ。
昨日テレビでお年寄り達にいろいろ聞いておる。もう寂しいと言わせにぁおかんちいうようなそのこう質問をしてるわけですよ。ですから年寄りの方達がそれに答えておる。やっぱり本音を言うたら寂しいですよと。金もあり物もあってもう、それこそよいご隠居さんでおさまっておれるんだけれども、やっぱり寂しいんだというような意味の事が皆そのお年寄りから返ってくる。いいや、私しゃ寂しゅうはないと言われる人は何かこうむきになって言いよるといったような感じですね。
テレビで私は、昨日それを見せて頂いて思ったんですけれども、とにかく、私は信心を頂いてまあ、有り難い有り難い生活をしておるから寂しいとか、そういう事じゃなくて、有り難い毎日を送っておるといったような人は一人も居ないかった、ね。
本当に真の信心をさせてもろうて一年々有り難うなってくると、ね。これはある大変沢山のお金もありゃそれこそ、まあ、御殿のようなお家に住んでおられるおばあちゃんでここに縁がないわけではないけれども、熱心に信心がでけるわけでもない。
その方の所に熊谷さんがある時お話しにおいでられた。まあ、お話しを聞いておると、もう本当にまあ聞いておるだけでも有り難いという意味の事を言われるから、時時、行ってお話しをされるんですけれども、もう熊谷さん私はこの頃寂しゅうて、寂しゅうてこたえんと言われたという話しがございます、ね。それこそお金はどれだけあるかわからん、立派な御殿のようなお家にも住んでおられる。しかも、おかげで健康でもある。それにもかかわらずね、寂しゅうて、寂しゅうて歳をとるに従って、もう八十いくつでしょうか、寂しゅうて、寂しゅうて足らんとこう言われる。それで、神様のお話しでも頂きよると心がまあ安らいでくるというわけでしょうけれどもね。 その根本になるところの有り難う、ほうっておいても有り難うなっていける土台というものをね頂いとかなければならん。それを私は力だと思う。お徳だと思う。
正教先生あの時頂いたお歌をちょっとあんた覚えとるならね、だからお互いがねおかげを頂きました、おかげを頂きましただけじぁ絶対有り難くなれんです。信心を頂いてはじめて有り難くなっていく手立てがある。どういう場合でも喜べれる。
もう、とにかくもう私は、歳をとるに従って有り難うなっていきますよと言えるようなね、信心を頂いて頂きたい、ね。
ここでは、守り守りの力という事を今日言うておられますがね、その結局、なら、皆さんがお宅のお神様、御比例というかそれを皆さんが家の神様を守りしておられるのですから、もう皆さんの信心そのものが、一年々有り難うなっていくとい程しの、まあ、お徳というか力、そこにはね、神も助かり氏子も立ちいく世界の顕現の為に信心があるのであって、私の願いが成就する事というのじゃなくて、神の願いと氏子の願いが成就していくようなね、いわゆる彼岸の彼方かもしれんけれども、それに向かって進んでいく心というものは、いよいよ神へ向かって精進していっておる。
いよいよ有り難うなる手立てを身につけていっておる。そして、あれもわかった、これもわかった。といよいよ本当の真実がわかっていくのですから、年をとっていくに従って有り難うなっていくという信心に、なら若い時に私はそれを聞いておる
その四十位から三十位、二十幾つ位の方達が年寄りをとり巻いていろいろ聞いておるわけですもん。聞いておるこの人達が年をとって行ったら、どげんなるじゃろかと私は思うたんです。やっぱこの人達もこのおじいさんやおばあさんのように、寂しゅうなっいくに違いないと私は思うたです、ね。
真の信心によるいうならば、信心の徳が、わが身についていかなければね、そういう今日の御理解は、教会なら教会長に対する、まあ、教会長の信心如何だよと。
神様は同じだけれども、その力如何だよというふうに言うておられるが、皆さんのお守りしておられるお神様と皆さんの事を思うてみて、この神様の信心のどこを頂いておるか、どこを自分の力としておるか、果して一年々有り難うなっているかどうかという事を確かめていかなければいけない。
「身にあまるおかげの世界に住みながら、なぜに起こるこの寂しさは、報恩の心をおこせ喜びは、願わずとても自ずから湧く。この喜びはあの世まで持って行かれ、この世にも残るものぞと悟わかし」
あの世に持って行かれる。頂くというものを頂けれる。私は信心が合楽の信心だと思うんです。その寂しゅうて寂しゅうてと言われるおばあちゃんに、私が書いて差し上げた歌なんです。ね、どうぞ一つね一年々有り難うなっていく信心を目指さねば駄目です。おかげは今言うように神様が本気で下さろうとすれば、ならここに、ここにはまだいっぺんも参って来た事のない氏子にでもです、医者でもどうにも出来ないという、いうならば今、昨日二つお取次させて頂いた行本さんの所の親戚と吉富さんのお導きの話しをさしてもらったがね、そういう働きもいうなら、いと簡単にお出来になる神様なんだと、けれどもそれを氏子の願いを思い通りにしてやれないという事はしてやれない。してやらんのというので、だからおかげなんだ。してもらえない事がおかげだとわかって、いうならば、真の信心をそこから目指さしてもろうて、彼岸の彼方に着いた時には、それこそ神も喜び氏子も喜べる、金光大神も喜んで下さる。
しかも、それがあの世へまでも持っていけれる繋がっておるというその喜びをです頂く為の信心修行でなからなきゃならんという事でございます。
どうぞ。